もう終わり!
以前の http://mojimoji7337.hatenablog.com/entry/2017/01/06/012802つづき。
いろいろ思うことはあるけれど、
もうこういう気持ちに引きずられるのはしんどいし、時間ももったいないから、
もう終わり!って
サクッと卒業したかのように、清々しい気持ちになって過ごしてた。
が、しかし。
散歩中に、息子からメールが入ってた。
先月末に、足を怪我してたらしい。
一昨日から復帰したらしいけど、
電話したら、まぁ、大丈夫そうだったけど、(
で、今のバイトは辞めて、
やりたいようにやってけばいいけど、
それはさておき、
怪我した状態で横浜に行ってたわけで、
仕事を休んで1月末には困ることもわかってたわけで・・・
でも、息子は父親にはお金のことは何も言ってないって。
電話を切ってからまた、
う~ん、やっぱりまだざわつく。
終わってないなぁ。
でもでもでも。
また思い返す。
いいんだ。
こうして息子は父親には何も求めず、淡々と生きてる。
更にやりたい方向に、歩を進めることを考えてる。
私も元気だし、大丈夫。
うちらは幸せ也。
感謝。
現実というものは。。。
身も蓋もない。
トホホ。
グッと堪えてきたけれど、
それはいつ伝わるのか。
伝わらなくとも、やはり自分の生き方を貫く。
潔く、美しく、気ままに生きるのみ。
ひさびさのハマりもの。
ずばりそれは、珈琲豆の焙煎。
自家焙煎をやってる知人が、家に眠ってる焙煎器がひとつあるとのことで、
生豆と一緒に購入。
やり方をざっくり教えてもらい、
丁寧な説明書もつけてくれたので、それを熟読。
さらに、youtubeでも、いくつか観て、いざ実践!
聞いてたよりも、
パチパチと煙の量が少ない。
それに、時間がかかり過ぎる。
ふむ。
多分、火が遠すぎたんだろう。
味は・・・
初めて自分の焙煎した珈琲。
雑味とかなくて、そこは感動!
でも、甘さやコクがまったくなくて、なんともサラサラの珈琲。
これは、まったくだめ!
それで、スイッチが入ったわけ。
自分の納得ゆく珈琲を求めて、焙煎修行の道へ。。。
まだ終わっていないこと。
2017年、新しい年の始まりです。
3日、高知在住の友人が、奈良の実家に帰省中に京都まで足を伸ばしてくれまして、
ランチしてきました。
この友人もシングルマザー。
16歳の娘と13歳の息子との3人暮らし。
ふたりとも、息子が行ってた学園に在籍中で、ふだんは寮生活。
似たような状況もあって、理解し合えることが多いです。
秋から電話で話してたテーマがあるのですが…。
それは、子どもの父親のこと。
私も友人も、傍から見たら、自分から離婚を選択し家を出たように思われてるけれど、
そこに至るまでのことを、誰にも話していないし、
離婚後、相手のことや何があったかを、話していない。
無意識に丸ごと封印してしまったみたい。
それが思いがけず、今になって出て来ることがあるって話。
それが、なかなかやっかいなのです。
いま、幸せだし、楽しくやってるのに、
意識してる範囲では、子どもの父親に対しても何の感情も残っていないのに…
でも、自身でもよくわからないのに、誰かの発言に過敏に反応してしまったり、
思わず涙が流れたり、カーッと怒りがこみ上げて来たり。
いったいこれは、どうしたものか?
新年早々なんだか重い話?を書いてるけれど。
これは、ホントはとっても前向きな話。
きちんと終わらせて、次に進むために、
自分ひとりでは気づくことができない、深く情動と絡みあってる記憶を、
過敏に反応するキーワードを頼りに、探り出す。
そして、もう今の自分にはそれはちっとも怖いことではない!ということを、
しっかり認識するのだ。
そして、きちんと卒業。
餅つき。
昨日は実家で餅つきでした。
子どもの頃からずっと、機械でついてます。
全部で20キロ。
すごい量です。
なんとなくですが、杵と臼でつく方が風情があると言いますか、
「餅つきに実家に帰る」というと、杵つきだと思われたり…
でも、機械でつくメリットもあります。
1日にたくさんつける。
少人数でも大丈夫。
こういうことだけではなく、まだあります。
蓋をして一気にこねるので、熱々のまま仕上がります。
杵つきでは返しの時に水が入りますが、機械だと返しの必要がないので水が入りません。
この2点は、メリットじゃないかな?って思います。
なんともかわいい感じです(^^)
お鏡さんを飾ると、一気にお正月モードです。
対等ということについて。
昨日、知人との関係を『対等』と書いたけれど、
読み返してみると、ちょっと違うかな?と、思ったので考えてみた。
『対等』ではなく、
私のことも、ひとりの大人として付き合ってくださってる…ということかな。
上からものを言うとか、自分を必要以上に下げられるのではなく、
私を、ただ私として扱ってくださってる。
そこには角度が生じないという関係。
取り繕う必要はなく、ただただ自分の良心にしたがって生きるだけ。
今日は7月に会ったっきりの知人と、ランチをして、気になる珈琲スタンドに寄って、また少し、話し込んで帰って来ました。
普段はほとんど連絡も取らず、全く違う暮らしをしているのですが、
ときどき、パッとタイミングが合う時に、約束をします。
知人と書きましたが、人生の先輩であり、仕事のことも教えてもらったりします。
なので、一見上下関係がある感じなのですが、私のことをただそのまま受け容れてくださっているのがわかるので、おこがましいけれど、“対等” で、いさせてもらっているように感じてます。
こういう人はなかなかいません。
ずっと気になってること…
気になるどころか、今こうして思い浮かべただけでも、苦しくなることがあります。
そのことは、誰にも言えなくて、ずっと、どう向き合えばいいかもわからずにいました。
ひとつひとつのことに、
「そうじゃないんです!」
「私はこう思っていたのです!」
って、言い訳することは簡単かもしれませんが、
そんなことしても、苦しく、恥ずかしくなるばかり。
きっと、このことにも理由がある!
私にとって、いちばんいい方法をとってくださった!
そう思うので、私は、ちゃんと生きるしかない!
と思って、そこにあるのはわかっているけれど、
なるべく見ないように、考えないように… と、やってきました。
知人はまるでそんな私のことがわかっているかのように、
「からだにまとっているものは、借り物。どんなに取り繕っても意味はないので、
どう思われてるかなんて、気にしなくても本当はいい。そんなことを気にする前に
ちゃんと生きることを大切にしてます。」と話してくれた。
自分に必要な言葉が、スッと入る。
私はこの人に会うことで、自分を軌道修正しているのかもしれない。
そして、何が起こっても大丈夫。
もちろん、壊れたり崩れたり、いろいろあるけれど、
それでも、壊れないものもある!ってことを、いつも示してもらってる。
私も、人に安心をわけることができる人になりたい。